Bonjour à tous! 渋柿です。
食べる、って本当に難しいですね。フランスで生活していてそんな風に思うようになりました。
単に美味しいものを食べるということだけではなくて、基本的にいろいろなことが信用ならない社会では、安心するためには自分の目で確かめる必要があるのです。フランスでは肉を買う行為にすらそれが現れている、と思うのは、穿った見方なのでしょうか。
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安心するためには想像力逞しくしないこと
南イタリアの田舎では他人が作ったラビオリなんて絶対に食べない
南イタリアに住む知人と肉のことで話題になりました。なんと、南イタリアでは『基本的になにも信用ならない。自分か身内しか信用ならない。だから子供も他人に預けるということはしない。どんなことがあるかわからないから。子供の友達が遊びに来て夕食を一緒にとるときも、「今ついた」「今からピザを食べる」「今からデザート食べる」など、必ず子供から親に何回も電話を入れて安心させるようにする。お店で売っている加工品も信用ならない。他人が作ったラビオリなんて絶対に食べない!』とのこと。
思考停止に陥っていないかしら?
それ聞いて思いました。
スーパーで売っているプラスティック製トレーに入れられて売られている肉って、どんな状態で育って、どんな状態でここまで来たのか?全くわからないよね、それを毎日の当たり前のことと思って気軽に買うということは、もしかしたら無条件に信用しすぎ、つまり思考停止に陥っているのかもよ!?
日本では加工品の多さが気になる
そんなことを考えるようになってから、日本に行くと加工品の多さが気になるようになりました。日本では食べることに関して深く考えたことはありませんでした。便利においしく食べられるものがたくさん売られています。あれこれ買って、食卓に何種類も並べることができます。それって、信用しているからです。
でも、その信用ってどこから来たのだろう?もしかしたら、想像力逞しくしないで安易に信用していたというだけかもしれません。きっと無意識のレベルでそうしていたのです。
第一、これに入っている肉っぽいものはなんだろう?この揚油はどんな油だろう?チーズっぽい味だけどなんのクリームだろう?この旨味は天然?それとも化学調味料?結局、自分が買ってきて混ぜたもの以外は、実はよくわからないのです。もっと正確に言えば、自分が買ってきて混ぜたものさえ、本当のところはどんなもんだかわかりません。
まとめ
食べ物に限らず、ニュースだってそうですけれど、自分の目で確かめなければ真偽は判断できません。しかし、それは不可能というもの。だからどこかで妥協しなくてはなりません。
肉は肉屋で塊で買う、正確には、必要な分量だけ肉の大きな塊から切り出してもらって買う、ひき肉はその場で必要な分量だけ挽いてもらう。それは、「いろいろなことが信用できないから。郵便だって届くかどうかわからないしね。肉についても基本は信用していない。肉屋でその場で切ってもらえば信用できる」ということなのだろうと思います。
究極的には、安易に信用するってことは、自分で確かめることもせず、考えることも何もかもやめて盲目的に心配をなくしていることと同様です。
そうだとすれば、主体的に食べるってことは、考えることの連続、どの程度で妥協するのかの判断、信用できるできないの判断、ここは一旦想像力を逞しくしないようにしよう、などの判断の連続、とも言えます。
あー、食べるって大変!!!!!!!!!!!!
疲れるから、とりあえず想像力をあまり逞しくさせずに今日も買い物に行ってきます。
A bientôt!